耳をすまして音を聞く。これが幸せな人生を過ごす条件。
私たちは、心を本当に落ち着かせたい時や、重要な締め切りの差し迫った仕事に集中して取り組みたい時、物音や話し声のよく聞こえる空間では、心が休まらず集中力が乱されることがあるため、できるだけ静かで物音の聞こえづらい空間を求める一方、あまりにも静かな空間には45分以上も居ることができないという研究結果があります。
この研究を行ったのは音の反射を無くすようにあらかじめ設計された無音室があるアメリカのミネソタ州、オーフィールド・ラボラトリーという施設です。
この施設の創設者であるスティーブン・オーフィールド氏によると、音のない空間にしばらくいると、耳が音のないことに慣れてきて、自分の心臓の音や食べ物を消化する音が聞こえ、自分自身が音を鳴らす物体になると言い、このように人間は生きている中で、常に特別な意識をすることなく、何かを聞きとろうとしています。
↑騒音も我慢できないが、静かすぎる場所はもっと耐えられない
聴覚は人間が死の淵に立たされていても最後まで残っている機能だと言われていて、また、チベットの死者の書によると、死後であっても49日間は耳を聞く機能だけは残っていて、その間は経典が読まれているそうです。(1)
もともと第二次世界大戦中の戦場から、頭部に重傷を負ったり、外傷後ストレス障害とよばれるPTSDを患った兵士の心を癒すために始まった音楽療法というものがあり、最近では医療現場でも音楽の効果を利用した癒しが広がっていて、アメリカのホスピスで音楽療法士として働き、患者のケア行っていた佐藤由美子氏は音楽療法は死期が迫っている患者にとって、とても重要な役割を担っているとして、次のように述べています。(2)
「信じられないかもしれませんが、意識を失い、目を開けることも話すこともできなくなった患者さんであっても、聴覚だけは残っています。」
実際に佐藤氏はたとえ認知症を患っている患者であっても、ふっとした瞬間に本来の自分を取り戻し、伝えたかったメッセージが発せられる可能性があると述べています。例えば、重度のアルツハイマーを患ってしまい、本来のその人らしさを失ってしまった患者に対しても、音楽を通じて素直な感情表現や楽しい思い出をよみがえらせ、患者が歌を歌っている間は本来の姿をとり戻したように見えたそうです。(3)
↑死期が近くなっても、好きな音楽や家族の声は聞こえる
それは遥か昔から変わっておらず、古代人にとって音楽は、機械的なものでも芸術的なことでもなく、動物が感情を鳴き声で伝えているのと同じように自分を表現するための道具でした。それゆえ、月日がどれだけ経ったとしても、人間の奥深くにある何かを表現する際に、絵画でも詩でも表すことができないものは音楽で表現するというように、本能的な最期の表現方法でもあります。(4)
また、音楽を聴いたり、演奏することは、人間の本質であると考えられており、そのような思いを表すかのように、音楽を意味する「music」という単語の語源には、ギリシャ神話に登場する詩や芸術の女神であるムーサ、英語名ではミューズの意味が含まれていて、音楽は芸術の神であるミューズから、人間に直接降り注ぐ神秘的で、命に関わるものだと考えられてきました。(5)
↑遥か昔から音楽は神秘的なものとして考えられてきた
人によって落ち着く音は違いますが、耳をすませて音を聞くことは、食事や睡眠といった行為と脳の状態が似ていて、これは生物として本能的な喜びと共通しており、香港のような街中の賑やかな音や人々の話し声を母胎の中にいるときから聞いていた人たちは、カナダのように自然に囲まれ静かな場所に移住したとしても、落ち着くことができず、そういった人たちに香港のノイズを録音したテープがよく売れたそうです。(6)
脳科学者である茂木健一郎氏は、外の音に耳をすませて生きることは創造的に生きる上での大いなる糧であり、人生はどれだけ耳をすませられるかの勝負にかかっていて、頻繁にクラシック音楽の演奏会を聴きに行き、音楽を楽しむ茂木健一郎氏は、生きながらにして生まれ変わることができる感覚は、音楽によって体感することができると述べています。(7)(8)
↑人生はどれだけ外の音に耳をすませられるかにかかっている。
曲の中には、人間の早歩きのようなテンポのアンダンテという速度の曲や、行進曲のようなアップテンポのものもあり、偉大な音楽家たちは、人間の心臓の鼓動や血液の流れのリズムといった私たち人間にとって、自然の律動をうまく引き出しているようです。
そのためにモーツァルトが作曲したゆったりしたテンポの曲を聴くと、血圧が下がり心臓への負担を減らすといった彼らの作曲した曲を聴くことによる身体への独特な効果があり、身体をリラックスさせるだけではなく、感情を解き放つことができると考えられています。(9)
↑偉大な作曲家は聴き手の自然な律動を引き出し、心を解き放つ
感情が揺さぶられるほどの曲を聴いた場合に起こる鳥肌や、心拍数の増加といった身体的な変化はすべて脳の反応に関係していて、この反応はドラッグを使用した場合にも同じ反応が起こるそうです。
このように、音楽を聴くことはとても大きな効果をもたらすとし、神経学者のダニエル・レヴィティン氏は音楽が人間にどれほど身体的にも精神的にも影響があるかを「脳に鳥肌がたつ」と表現しています。
(10)
音楽が人間の感情に影響を与えているということは、以前まで科学では解明できない神秘的な現象として、科学者たちは研究をしようと思っていませんでした。
しかし、最近では音楽と脳、感情は完全に切り離すことが不可能なものだと認識されており、音楽が脳にどのような影響を与えるかの研究を世界中の研究者が進めていて、このような状況に関して、エミー賞を受賞した経験を持つドキュメンタリー監督、エレナ・マネス氏は、音楽は人間の心理状態、身体的な機能だけではなく、どうあるべきかといったアイデンティにも影響を与えていて、音楽を聴くことによって、負の感情さえも消しさることができるのではないかと述べています。(11)
↑本当に自分に合う音楽は気の向くまま本能で選ぶ
このように、音楽を聴くことや感じることは人間にとって良い効果があり、人生を潤す大切なものであるにもかかわらず、現実は計算や論理を担当する人を上手に使ったり、もしくはルールを作るという左脳中心の社会です。そのため、感情や感性、美意識のような理屈では説明することが難しい右脳は軽視されていれています。
しかし、定年後にそういった人たちが幸せな老後を送っているのかと言うとそうではなく、多くの老人のように時間的な拘束がなくなり自由になる反面、一定の時間を外で過ごさないと不安になり、たとえば、自分の時間をつぶすために必要以上にいろいろな人と関わり、それがエスカレートして、関わる人たちに邪魔者扱いされてしまったりということが少なくありません。
↑自分の感性を無視して働いても、待っているのは不幸な老後
株式会社 龍角散の代表取締役社長であった藤井 康男氏は音楽を聴き感性を磨くといった右脳を徹底的に鍛えている人は、自分が心の底からしたいと思ったことや本当の思いに忠実になり、人生を過ごしていて、現代社会を支配している左脳人間とは違った生き方をすることで幸せな人生が待っているのではないかと述べています。(12)
物理学者でなければ、音楽家になっていただろうと証言するほど音楽が好きだったアルベルト・アインシュタイン氏は幼い時から、音楽に親しむ機会が多く、音楽を通じて得た独自の感性を活かして、大きな業績を残していたり、ノーベル医学賞を受賞したトーマス・スドフ教授は音楽を習ったおかげで受賞することができた述べているそうです。
カナダのトロント大学で行われた研究によると、音楽に親しむ子供の90パーセントは問題解決能力や、何かを考えたり計画する能力が高まっていると言われていて、子供によってはIQが特別高くなる子もいるようで、こうった自分の能力を高めることや自分の思い描いている人生を歩むことへの関係性は、一概にも無関係とは言えません。
↑理屈っぽい老人より感性を大事にしている老人のほうが人生は楽しく過ごせる
聴覚に不自由のない健常者にとって、音は自然に存在していて、楽しい音楽を聴くことで感情が動かされ楽しい気分になることや、一方で不快な音で気分が悪くなるときがあるときがあったりと、いい意味でも悪い意味で音に振り回されています。
しかし、遥か昔から様々な音を身近に感じながら進化してきた人間には、音との関係を切ろうと思ったところで簡単には切ることはできません。
人間の感情や生理機能のようなすべての器官を司る脳にも、音楽は影響を与えているだけではなく、人としての生き方や幸福度合にも影響を与えており、聴くことに対しての意識を少しでも考えていけば、精神的に豊かな人生を送ることができるのではないでしょうか。
- 参考資料
- (1)養老孟司 「耳で考える ―脳は名曲を欲する」 (角川書店, 2009年) kindle 452
- (2)佐藤由美子 「ラストソング」 (ポプラ社, 2014年) kindle 30
- (3)佐藤由美子 「ラストソング」 (ポプラ社, 2014年) kindle 363
- (4)ハズラト・イナーヤト ハーン,音の神秘―生命は音楽を奏でる(平河出版社,1998) p36
- (5)茂木 健一郎,すべては音楽から生まれる (PHP研究所,2007) kindle 540
- (6)養老孟司 「耳で考える ―脳は名曲を欲する」 (角川書店, 2009年) kindle 912
- (7)茂木健一郎 「すべては音楽から生まれる」 (PHP研究所, 2007年) kindle 420
- (8)茂木健一郎 「すべては音楽から生まれる」 (PHP研究所, 2007年) kindle 253
- (9)エレナ・マネス 「音楽と人間と宇宙~世界の共鳴を科学する~」 (ヤマハミュージックメディア, 2012年) p46
- (10)エレナ・マネス 「音楽と人間と宇宙~世界の共鳴を科学する~」 (ヤマハミュージックメディア, 2012年) p75
- (11)エレナ・マネス 「音楽と人間と宇宙~世界の共鳴を科学する~」 (ヤマハミュージックメディア, 2012年) p115, 122
- (12)藤井康男 「創造型人間は音楽脳で考える」 (プレジデント社, 1979年) p164